とりあえず快適カナダ生活 SI’s diary

きっとカナダを好きになる

違いを見つけること と 差別すること は 似ている

カナダに来てまだ4ヶ月くらいの私ですが、偏見について考える少し悲しい出来事がありました。

 

 

こちらに来てから、たくさんの方とお話してきました。幸いなことに私は小さな差別すら受けたことはありません。

しかし、不必要な偏見を生まないように伏せ字にしますが、アジアの〇〇出身の方に偏見を持った人が少なからずいることはわかりました。はっきりと〇〇人は嫌いだ、と言った人にも会いました。

カナダの物価上昇の原因の一つが〇〇人がたくさん移民として入ってきているせいだ、と思っているようです。それもあって嫌いだと。その人は”〇〇人”と言う時にとても嫌なものを話しているように話していました。

たくさんの人種がいるカナダでも偏見があるに驚き、そしてとても悲しいことだと思いました。

 

なぜ一括りで特定の国民を嫌いになれるのでしょうか?一体何人の人と接して全体を見ているのでしょうか?

自分の許容できる範囲を超える行動をする人が嫌いなのでしょうか?差別や偏見がはじまる理由はなんなのでしょうか?

 

以前のブログで私がカナダにいても日本人を見つけることができることをお話ししました。同じ国民かどうかの判断は、自国と他国を分けることと同じです。

分け方によっては差別的な行為と思う方がいるかもしれません。私が日本人を見つける時に他の国への差別の気持ちはありません。でももしかしたら、”〇〇人は嫌いだ”と言ったあの人も、差別を言っているとは思わず、自分の国との違いとして口にしていたのかもしれません。

 

本人に差別の自覚があるか・ないか、偏見の気持ちを持っているのか・いないのかの、真意はもしかしたら本人いもわからないのかもしれません。けれど人種を分類する言葉や行為は時に人を傷つけます。

 

 そして、新たな差別に繋がってしまうと思います。

 

私の心に小さな偏見が生まれ、そして何度も何度も同じような差別の言葉を聞くことで〇〇出身の方への偏見の気持ちが育ってしまったらどうしよう、と不安に思いました。 大人が偏見を口にしていたら、小さな子供なら尚のこと鵜呑みにしてしまうと思います。偏見が受け継がれてしまいます。

 

私は〇〇人の人たちに対して、差別の気持ちはなかったのに、現実世界に本当に差別があることを知ってしまったのです。

 

同じ国出身かどうか、の私の判断も人種差別の一つになり得るのではないか。違いを見つけることは悪いことなのか。そしてそれを言葉にすることも悪いことなのか....?

 

何が良くて、どこからが悪いのか。それとも良い悪いの判断できないものなのか。

なんだか分からなくなりました。

 

私はカナダにいて、いろいろな場所で日本とカナダ、日本人とカナダ人の違いを感じます。違うから日本の良さ、カナダの良さを見つけます。

世界がみんな同じではなかなか良さを感じることができないと思います。いいと思ったから言葉にします。

 私は世界がみんな同じではつまらないです。

  

けれど最近思ったのです。私が面白いと感じている”違いを見つけること”と”差別すること”が、実は似ていることに。

 

世界が同じではつまらないです。違うことは素敵です。

でも違うから差が生まれ、優劣がつき、損得が生まれ、差別の感情が出てくるのかもしれません。

 

いろいろ考えいたら、まとまらなくなってしまいました。

 

世界はとても広く、けれど私の頭の中はとても狭いようです。

考えても答えが出ないことが頭の中でぐるぐるしています。